日本経済史(前編)

授業

日本経済の歴史について解説していきたいと思います。ここでは、戦後直後から高度経済成長の終了までを解説していきたいと思います。

戦後直後の日本経済

日本は1945年8月にポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をし、戦後を迎えます。ポツダム宣言では、軍軍国主義指導者の権力と勢力の除去、民主主義の復活、戦争犯罪人の処罰傾向など求められました。日本を間接統治することになったGHQは、戦争に関わった権力側の弱体化と労働者や農民などの保護を目指します。間接統治とは、GHQが日本政府に対して方針を示し、日本政府がそれを実行していく形のことです。

最初に、GHQ側は軍国主義指導者として約20万人を指定します。彼らを政治や経済の指導的地位から追放します。これを公職追放といいます。軍隊の指導者、国会議員などが次々と追放されていきます。次期首相候補であった鳩山一郎や戦後経営の神様を呼ばれた松下幸之助(後に追放解除)も追放の対象でした。

次に、GHQ側は財閥解体を目指します。財閥が、戦争中に莫大な利益をあげ、軍事面で日本政府を支えてきたと考えたのです。GHQの指導のもとで、日本政府は持株会社整理委員会を発足させます。持株会社とは、株式を保有することで複数の子会社に対して指示を出す組織です。その持株会社である三井本社、三菱本社などを解散に追い込みます。そして、1947年には、独占禁止法を制定し、財閥が再び復活しないようにしてしまいます。

さらに、GHQは経済の民主化のために、日本の一般労働者や農民を保護していこうとします。なぜなら、労働者や農民が、政治参加し、民主主義を支える勢力になることを望んだからです。つまり、経済の民主化とは、労働者が権力者の言いなりにならずに、自らの権利に基づいて環境を作り上げていくことと考えればよいと思います。そのためには、労働者の権利の確立が必要です。戦後に確立された労働三権は言えるでしょうか?団結権、団体交渉権、団体行動権ですね。団結権とは、労働組合を作る権利、団体交渉権とは労働組合が使用者と交渉する権利、団体行動権(争議権)とはストライキなどを行う権利です。ストライキ以外の争議行為としては他に、サボタージュというものもあります。サボタージュとは、仕事の手を抜くことで、フランス語での「サボる」ことを意味します。1945年には労働組合法が制定され労働基本権の確立が始まります。その後、1946年に労働関係調整法、1947年に労働基準法が制定されます。まずは、団結ということなので、労働組合法が一番最初に制定されたと覚えておいてください。

農業の民主化については、GHQ主導のもとで農地改革が行われます。GHQは、個人の自由や権利よりも上下関係や身分が強く重んじられる日本の封建的な農業の仕組みを改めるべきだと考えたのです。そのためには、大地主が土地を農民に貸して地代を取る制度をやめるべきだと考えました。日本政府はGHQの指導のもとで、地主の土地を買い取り、安く小作農民に売り渡しました。このようにして自作農が多く誕生しました。同時に、大地主が復活しないよう、大地主が土地を買い戻すことを禁止する農地法も制定されました。この農地改革については、自作農の生産意欲が高まり農家の所得が高まった点は評価されています。他方で、一つ一つの農地が小分けとなってしまったため、大規模農業が難しく、戦後農業問題の原因となったとも言われています。

復興期の日本経済

経済の民主化が整えられる一方で、戦後の日本は経済自体はズタズタです。東京は焼野原で、戦地から帰ってきた元兵隊には仕事がなく、頼みの綱である財閥は解体に追い込まれています。そのような中で吉田茂内閣は、傾斜生産方式を実施します。傾斜生産方式とは、基幹産業である鉄鋼や石炭部門に資金や労働力をたくさんつぎ込み経済を立て直そうとする政策です。そのための資金を調達するために復興金融金庫が創設されます。復興金融金庫は復興債という借金証書を発行し日本銀行から資金を得ます。その資金を鉄鋼や石炭部門につぎ込んでいきます。この政策によって、日本経済は立て直しの兆しを見せます。ただし、このような政策によってハイパーインフレが起こります。ハイパーインフレとは、急激に物価が上昇することです。まだまだ、世の中に商品がない中で、日本銀行にお札をどんどん刷らせ、世の中にたくさんのお金が出回ったために、このようなことが起こってしまいました。

GHQは、このような日本経済の状況を危惧して二人の経済専門家を日本に送り込みます。一人は、デトロイト銀行頭取のドッジ、もう一人は経済学者のシャウプです。GHQは日本経済の急激なインフレーションを立て直すために経済安定9原則を支持し、ドッジはその原則を具体化した政策を提案します。これがドッジラインと呼ばれるものです。大きく三つの政策が実施されました。

主な政策内容
復興金融金庫の廃止ハイパーインフレの原因であり日本銀行による通貨の発行を止めるために、そもそも復興金融金庫を廃止してしまう。
固定相場制の決定1ドル=360円の固定相場制を実現。1ドルをどうするかは政府と何度が調整し、円は360度であるといことで決まったとの説がある。
超均衡財政際限なく政府が支出すればインフレになるので、歳入が100万円ならば歳出も100万円とするなど財政規律を強めた。

以上のような政策によって、当初の目的であったインフレーションを抑えることには成功しました。しかし、逆に景気が悪化し、デフレーションに陥ってしまいます。これをドッジデフレと呼んだり、安定恐慌と呼びます。

一方、税制改革については、シャウプ勧告というものが出されます。このシャウプ勧告によって、日本の税制は間接税中心主義から直接税中心主義に改められます。戦前の日本は間接税の割合が高い傾向にありました。間接税とはモノにかかる税です。たとえば、砂糖やたばこなどにかかる税です。この税のデメリットはモノの本来の価格を見えにくくしてしまうことです。皆さんも、お店に並んでいるモノの本来の価格が消費税によって見えにくいと感じませんでしょうか?このような不透明な税制ではなく分かりやすく直接税中心の税制に改めさせたのがシャウプ勧告と考えればよいでしょう。

傾斜生産方式やGHQ主導の改革などもありましたが、結局のところ日本が復興できたのは、1950年に朝鮮戦争が起こり、特需(朝鮮特需)となったからです。この戦争により、GHQの中心であったアメリカは朝鮮戦争に参加するようになり、日本からの物資に頼るようになります。そうした好景気によって日本経済は立てなおることになり、以後は高度経済成長を成し遂げます。

高度経済成長期

高度経済成長の時期は、1955年~1973年です。この二十年ほどの間に日本は見事に復活し、世界第二位の経済力を誇るようになります。日本が、高度経済成長が実現した背景には、若い労働者がたくさんいたこと、国民のたくさんの貯蓄が銀行を通して企業の設備投資への向かったことなどが挙げられます。景気の名づけ方は日本の神話から来ています。最初の神武景気は「神武天皇の即位以来の好景気」という意味です。しかし、皆がそう思っていたところ、その後に、より良い好景気がきてしまった。そのため、神話をさらに遡り、天照大御神が岩戸に隠れた「岩戸伝説」からその次の景気を岩戸景気と名付けます。さらに、オリンピック景気を経て、高度経済成長期における最大の好景気は、日本列島を作った「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」に由来し、いざなぎ景気と名付けられました。それぞれの時期にどのような出来事があったかを下の表にまとめておきます。

内容
神武景気(1954年~1957年)経済白書に「もはや戦後ではない」と記される。
岩戸景気(1958年~1961年)経済白書に「投資が投資を呼ぶ」と記される。三種の神器として冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが普及し始める。1960年には池田勇人内閣のもとで「所得倍増計画」が出される。
オリンピック景気(1962年~1964年)東京オリンピック(1964年)前の好景気。日本は、1964年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟することになる。1960年代にはエネルギー革命が起こり、主要なエネルギー源が石炭から石油になる。
いざなぎ景気(1965年~1970年)日本が1968年に西側諸国で西ドイツを抜いてGNP世界2位になる。3Cとしてカラーテレビ、車、クーラーが普及し始める。1970年には田中角栄内閣から「日本列島改造論」が出され公共事業が進められる。

以上の好景気ですが、1973年にオイルショックが起きたことによって終焉を迎えます。オイルショックは1973年に第四次中東戦争が勃発した影響で起こったものです。第四次中東戦争は、パレスチナをめぐるアラブ諸国とイララエル陣営による争いです。この戦争の際に、アラブ諸国のうち石油を持つ国々が団結しイスラエルの味方をするアメリカ側西側諸国への石油供給をストップします。途端に世界の石油価格は4倍への跳ね上がります。日本もこの影響を受け、1974年には戦後初のマイナス成長を記録します。このようにして高度経済成長は終わりを遂げたのです。

財閥解体と戦後日本の経済復興 (ritsumei.ac.jp)