国際社会における日本

(1)日米安全保障条約

 日本は長年アメリカと日米同盟というものを組んでいます。この同盟ですが、今後さらに強化していくべきでしょうか?そもそも日米同盟とは何なのかを解説しておきたいと思います。日米同盟とは、日米安全保障条約にもとづいて形成される日本とアメリカの同盟のことです。もしも、外国が日本を攻撃した際にはアメリカが共同防衛してくれることになっています。実際はどこまでやってくれるのかは分かりませんが。ただし、少なくとも、日本を敵国と想定している国にとっては、日米同盟を脅威ととらえることは確かでしょう。

 歴史的には、日米安全保障条約はサンフランシスコ平和条約と同日に結ばれたものです。サンフランシスコ平和条約によって、日本が世界各国と講和し、主権を取り戻しました。日本が独立することになった条約です。条約を締結したのは、吉田茂内閣です。吉田茂は元外交官で戦時中にアメリカとの戦争に反対し、反体制派でした。戦後はそのような経歴を買われたこともあり、内閣総理大臣になりました。GHQのマッカーサーとの交渉をたくさんやっていきます。色々と裏工作もしながらやっと主権を回復するまでにもっていったのです。ちなみに元総理大臣の麻生太郎は吉田茂の孫です。

 吉田茂は、主権を回復する国は、自国の言葉で条約調印の演説するべきだと考えました。そのため、GHQから許可されていた英文の原案を演説直前に日本語に書き換えます。本番の演説中に読んでいる原稿用紙の長さや形状がトイレットペーパーのようだったので、各国にトイレットペーパーを読んでいるようだと報道されました。

 吉田茂がサンフランシスコ平和条約と同日に結ぶことになっていたのが、日米安全保障条約(1951年)でした。これは、占領中日本にいた米軍が、日本の独立後も引き続き、日本の駐留することを認めるものでした。決して、名誉ある条約ではありません。内容としても、日本国内で日本人が内乱を起こした際には米軍が鎮圧できることが記され、米軍が日本を守る義務についても不明確でした。さらに条約に期限もありませんでした。これらの安保条約はいわゆる旧安保条約と言われます。なぜなら、1960年に内容を変えて安保条約が結ばれているからです。

 このような旧安保条約の内容を大変心苦しく思っていたのが、1957年に発足した岸内閣の岸信介総理大臣(1957~1960年)でした。あだ名は「昭和の妖怪」です。第二次世界大戦中に東条英機内閣で大臣をつとめており、A級戦犯として起訴された人です。もう死んでしまったと思われていたので、そのようなあだ名がつけられました。ちなみに、岸信介の弟が佐藤栄作元総理大臣(1964~1972年)です。非核三原則を閣議決定したり、沖縄返還を実現しノーベル賞をもらった人です。また、岸信介の孫が、戦後最長内閣を築いた安部晋三元総理(2006~2007年、2012~2020年)です。

 岸信介は、旧安保条約の改定することを望んでいました。しかし、当時の日本国民は強く反発しました。日本とアメリカとの関係がこれ以上接近すると、日本が再び戦争をしてしまうんじゃないかと考える人が多くいたからです。また、岸総理自身が元A級戦犯であったということも条約改定に対する批判へとつながったとされています。そのため、安保改定に対して大規模な反対運動が起こります。いわゆる安保闘争です。大学はデモ隊に封鎖され、入学式も卒業式もできない状況でした。もしも、大学でフランス語や英語の授業をしようものなら、「帝国主義言語やめろ!」と放送が流れていたそうです。中国語は帝国主義言語じゃないからオッケーだったと、私の大学時代の先生が言っていました。皆が皆「安保反対!」と叫んでいました。そのため、幼かったころの安倍晋三さんは、祖父で当時の岸信介総理に向かって「安保反対!」と意味も分からず遊びで言っていたようです。

 このような反対運動の中、日米安保条約によって在日米軍駐留することが憲法違反かどうかを争う裁判も行われました。砂川事件(1957年)といいます。安保反対のデモ隊が、東京都砂川町(現在の立川市)の米軍基地に乗り込んだことをきっかけに裁判が行われました。デモ隊側はもちろん在日米軍基地の存在自体が違憲であるという立場で裁判を戦います。第一審では、在日米軍の駐留は違憲であり、被告人は無罪という判決が出されました。政府見解に反する判決です。伊達裁判長が書いたので、伊達判決といいます。

 国側としては大慌てです。このころには、1960年の安保条約の改定作業を進めていたからです。日本政府は、アメリカ側からアドバイスをもらい、条約改定作業に間に合わせるために、跳躍上告を行います。第一審からいきなり最高裁への上告です。結局、最高裁は、統治行為論を出し、在日米軍が憲法違反であるかどうかは判断しませんでした。被告人側は有罪としてこの裁判は終わりました。このような過程を経てできた新安保条約です。では、新安保体制になってどのような変更があったかを確認しておきましょう。大きく四つです。

 第一に、日米の共同防衛が明記されました。旧安保では米軍が日本を守ってくれるかどうか分かりにくかったのです。そのため、今回の改定ではきちんと共同防衛が明記されることになりました。ここでの共同防衛とは、日本の領域が攻撃された場合の話しです。もちろん、日本にいる米軍が攻撃された場合も共同防衛することになります。一方で、憲法9条は集団的自衛権を行使できないと解釈されている(当時)ので、アメリカのワシントンD.Cなど日本の領域外での攻撃の場合は、日本が共同防衛することはできないとされています。第二に、内乱条項が削除されました。独立国として自国の反乱は自国で取り締まることが認められたわけです。

 第三に、これは条文自体には書いていないのですが、米軍が日本側の意思に反して行動しないように、米軍の配置などに変更があった場合には事前協議が行うことが決められました。たとえば、アメリカが核を日本に持ち込む場合には、事前協議が必要であるとされています。そして、日本としては、非核三原則があるので「持ち込ませない」として拒否することができます。これまでに核持ち込みについて事前協議はありませんでした。そのため、日本に核が持ち込まれたことはないというのが、日本政府の立場です。

 第四に、新安保条約にあわせて、日米地位協定が締結されました。これは在日米軍の扱いについて記されたものです。米軍関係者が公務外に日本国内で犯罪を犯した場合でも、米軍基地に逃げ込んだら、身柄を簡単に拘束できないなどの日本側にとって不利な内容となっています。1995年に沖縄県で、米軍による少女暴行事件が起きました。沖縄は、国内の米軍基地の7割が集中していますね。普段からの不満も高まり、県民による大規模な抗議運動が発生しました。それがきっかけで、日米地位協定は少し改善されましたが、根本的に日本にとって不利な点は変わっていません。また、日米地位協定には書いていませんが、日本側が米軍の駐留経費の一部を肩代わりする「おもいやり予算」というものがあります。1970年代にアメリカの財政状況を考えて日本が自主的に実施したものです。世界各国の米軍を受け入れている国の中で、日本が一番米軍に対してお金を出しています。

(2)日米ガイドラインについて

 日米ガイドラインについても解説しておきます。日本語では、「日米防衛協力のための指針」のことを指します。日本とアメリカの防衛協力の方針を定めた協定です。通常の条約のように法的拘束力がないため、国会での承認なく結ばれるものです。なぜ、このようなガイドラインが必要になったかを説明します。1960年に安保条約が結ばれた頃というのは、日本の自衛隊はそれほど大規模なものではなかった。そのため、安保条約に書かれている共同防衛とは、事実上アメリカが日本を守ることを意味するに過ぎなかったのです。そのような時期には、米軍と自衛隊がお互いどのような動きをするかを具体的に確認する必要もなかったのです。

 しかし、1970年代になってくると日本も経済成長を遂げ、自衛隊もそれなりに整備されてきます。他方で、各国が経済成長するにつれて、アメリカの地位は戦後すぐの頃に比べて相対的に下がっていました。また、当時はアメリカとソ連が冷戦をしていました。そのため、北海道がソ連から攻撃された場合つまり「日本有事」を想定する必要がある。そこで互いの防衛政策を確認するという意味で、1978年に日米ガイドラインが定められます。

 その後、1991年にソ連は崩壊します。1978年に策定した日米ガイドラインの意味は薄れていきます。そのため、1997年にガイドラインが改訂されます。北朝鮮が軍事力を増強する中で、日本が直接攻撃されなくても米軍を後方支援していく体制に改められたのです。後方支援とはアメリカの戦艦に給油を行うなどです。これは憲法9条違反ではないとされています。日米ガイドライン改定の内容を実行できるように周辺事態法(1999年)という法律も制定されることになりました。

 そして、2015年にはガイドラインが再び改定されます。今度は、北朝鮮だけでなく、国際的はテロリズムや中国の軍事力増強にも対応するためです。日本は2014年に憲法の解釈を変えて、集団的自衛権も限定的に行使することが可能となりましたので、このガイドラインではその点も追加されました。日本と米軍の共同防衛はグローバルに行うことになりました。周辺事態法の名称も、2016年には重要影響事態法へと変更されました。

(3)日本の国際社会への貢献

 最後に、日本の国際貢献について説明します。日本は憲法で自衛隊を戦闘地域に派遣することはできないことになっています。しかし、国際社会としては、先進国である日本にも積極的に海外に自衛隊や警察官などを派遣してもらいたい。湾岸戦争(1991年)は、海外に自衛隊などを派遣していく機運を高めるきっかけとなりました。

 湾岸戦争は、冷戦が終わった中で、中東のイラクが隣国のクウェートに侵攻したことをきっかけにスタートしました。国連安全保障理事会はイラクの侵攻を止めるため、多国籍軍を設置することを決めます。アメリカを中心とする軍隊です。日本は憲法9条の制約があるので自衛隊を派遣できません。その代わりに、130億ドル、当時のレートで1兆8千億円を多国籍軍に出します。世界各国は、これを「小切手外交」と揶揄しました。また、クウェート政府は、戦争後に感謝の意味を込めて、協力してくれた国名を書いた広告を出したのですが、日本の名前はありませんでした。このような経緯から、日本の安全保障政策を見直す必要があるという声が高まったのです。「湾岸のトラウマ」といいます。停戦後に政府は自衛隊をペルシャ湾に送りました。機雷の掃海活動を行うためです。これが初の自衛隊海外派遣です。

 そのような過程を経てできたのが、PKO協力法(1992年)です。PKOとは、国連平和維持活動を指します。紛争地域の平和の維持や回復のために各国の人々が選挙の監視、難民の帰還支援などを行うために派遣されます。PKO活動は、国連憲章自体には書かれていません。国連憲章には6章「紛争の平和的解決」、7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」が記されています。そのため、PKO活動は「6章半憲章」と言ったりします。

 日本としても、PKO活動は、受け入れ国の同意があり、停戦地域で武器使用も最小限であれば憲法9条にひっかかることなく自衛隊を派遣できると考えました。この法律によって、日本は自衛官や警察官などを海外に派遣してきました。派遣決定は国会の承認はいりません。ただし、比較的軽装備であったとしても事実上の軍隊として派遣されるPKF(平和維持軍)については国会の承認が必要です。自衛隊がPKO活動として、初めて派遣されたのがカンボジアです。その他として、シリア(1996~2013年)、東ティモール(1999~2000年)、南スーダン(2011年~)などにPKO活動をして派遣が行われています。2015年には法改正が行われ、民間人などを助けるための武器使用いわゆる「駆けつけ警護」を行うことも可能となっています。

 また、PKO以外での派遣も有効期限を定めた上で行われてきました。有効期限を明らかにした法律として、テロ対策特別措置法(2001年、アフガニスタンへ)、イラク復興支援特別措置法(2003年、イラクのサマワ)、海賊対処法(2009年、ソマリア沖)などがあります。しかし、2015年には国際平和支援法という法律ができまして、国連決議にもとづいた多国籍軍などへの後方支援については随時可能となりました。以上のように現在では自衛隊は様々な場所に派遣されており、国際社会では軍隊という位置づけを受けていると思って間違いないでしょう。