民主政治の基本原理①

(1)政治とは

社会とは人間の集まり、集団のことを指します。社会では政治が行われます。政治とは何かを考える前にそもそも、人間とは何か?これは人類がずっと問うてきものです。古代ギリシャのアリストテレスは、「人間は(ポリス的)動物である」と述べました。日本語では「政治的動物」と訳されるのが一般的です。すると、次に思い浮かぶ疑問は「政治とは何か?」というものでしょう。皆さんは「政治」と聞くとどのような言葉を思い浮かべるでしょうか?

 おそらく、法律、国家、内閣、議員、憲法などなど中学校や小学校で習ったことばではないかと思います。辞書的に言うと、政治とは「共同体の中での調整を行い、秩序形成すること」です。皆さんの日常にひきつけて考えると、学校のグランドはどこの部活が使うか、クラスの掃除当番は誰がやるか、といった問題も本質的には政治の問題であり、調整こそが(政治)といえます。法律、内閣、憲法などのこれらの言葉は、結局のところ、人々の利害の調整と秩序のためにあるといえます。アリストテレスは、人間は共同体の中で、政治(調整)を行いつつ、共同体で生きる能力を養い、良い生き方(善)を目指すことで幸福になれると考えたのですね。

2.法とは

 皆さんにとって一番身近な法とは、憲法ではないかと思います。では、憲法を守らないといけないのは誰なのでしょうか? 皆さんの多くは「国民」と答えてくれます。果たしてそうなのでしょうか?ここでは一つ例として(尊属殺人重罰規定)事件を取り上げましょう。そもそも尊属とは何でしょうか?尊属とはお父さん、お母さん、おじいちゃんなどの目上の人ですね。尊属殺人重罰規定とあるから、おそらく親殺しは罪が重いということでしょう。ここで事例です。

事例 ある女性が十数年にわたって、父親から家庭内で本当にひどい虐待を受けていた。家出を試みたりもしたが叶わず、最終的には父親が寝ているところをひもで絞殺するにいたった。殺害後すぐに自首することになる。近隣住民が弁護士を探してくれて裁判を行うこととなる。刑法では殺人については以下のように記されている。

刑法199条 普通殺人罪    死刑 or 無期懲役or懲役3年以上(現在は5年以上)

刑法200条 尊属殺人罪  死刑 or 無期懲役

ここも高校生は意外と分かっていないのですが、「執行猶予」とか「無期懲役」を理解していますか?

執行猶予とは、刑の執行を猶予し、一定期間の間再度犯罪を犯さなければ刑罰を消滅してもらえる制度です。執行猶予3年といった場合には3年間真面目に生活していれば刑務所に行かなくていいということですね。また、無期懲役とは、死刑の次に思い刑罰で刑期の定めのない懲役刑です。大体30年ぐらいは刑務所の中です。無期懲役と終身刑をごっちゃにしている人がいるので注意。日本に終身刑はないですよ。

普通殺人と尊属殺人での重要な違いは、刑法200条の尊属殺人罪が適用された場合には、なんらかの事情があって減刑されたとしても、執行猶予が絶対につかないことなのです。そもそも刑罰が非常に重いので。

 これを皆さんはどう思いますか?たしかに殺人はダメだけど、この事件の場合には被告人の女性が刑務所に入るのは少し可哀そうだとも思いませんか?そこで弁護士さんはあるロジックで裁判を戦うのです。憲法の条文の規定と刑法の規定に矛盾があるという点を突く戦略です。

憲法14条 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

 すると、そもそも刑法200条は憲法14条の規定に違反ではないのかとなるのですね。最終的に最高裁判所は刑法200条の内容自体に(違憲)判決を下しています。よって200条は無効。(少したってから法改正で条文自体も削除)

この事件では199条が適用され、有罪ですが執行猶予がつくことになりました。憲法は他の法律などよりも上位なのですね。これを憲法の(最高法規性)といいます。たとえ多数決で決められた法律であっても憲法の規定に反する場合には無効とすることができるのです。

 「法の支配」とは、人々の人権を守るための法(憲法、自然法)によって、多数決で決まった内容や多数決によって定められた法律が無茶苦茶な場合には、裁判所がそれ自体を無効にするしくみのことをいいます。「多数決で決めたことは守らないといけない」とこれまで小学校や中学校で教えられてきたかもしれませんが、人権を侵害するような多数決はそもそも憲法違反で無効にできるのですね。

 最初の問いに戻りますが、憲法は国民が守るべきものというよりも、国民の権利を守るために権力者や権力者がつくった決まりを拘束するものなのですね。この点を勘違いしている人が非常に多い気がします。このような法を(公法)といいます。一方、一般市民同士の契約などを対象とするのが(私法)です。法によって性質が大きくことなるのですね。

3.憲法とは 

 さきほど申し上げたように、憲法とは国家権力を制限して国民の権利を守るものです。「立憲主義」とは、憲法によって権力を制限していこうとする考え方のことを言います。国家権力って聞くと皆さんはあまり抵抗感がないかもしれませんが、歴史上人々の人権を最も侵害してきたのは国家権力何です。たとえば、中世の国王なんて、簡単に言うことを聞かない人を牢屋にぶち込みます。現代でもナチスドイツのスターリンは世界中のユダヤ人の約半数を殺害していますし、ソ連のスターリンは戦争で亡くなった人以上に国内の人々を殺害しています。国家権力は怖いのですね。なので、18世紀ごろには、巨大な国家権力は拘束するべきだという考え方が出てくるのですね。それを端的に表しているが、フランス人権宣言16条です。この条文は色々なテストで頻出。

フランス人権宣言16条 「いかなる社会も、(権利の保障)が確保されず、権力の(分立)が確立していないすべての社会は(憲法)をもつものではない。」

条文にあるように①国民の権利、②権力の分立 が書かれていることが近代以降の憲法には求められます。

では、日本国憲法の規定を見てみると、章を分けて国民の権利、国会、内閣、裁判所と記述されています。これは「国民の権利はしっかりと書いておこう」、「国会・内閣・裁判所といったそれぞれの機関はできることを分けておこう」って言いたいのです。一応、日本国憲法は近代憲法としての条件はクリアー。とくに後者は、権力の分立ですね。

権力の分立については、大きく二つを押さえましょう。

・(ロック)型・・・議会(市民)のもつ立法権、国王のもつ行政権(外交権)の二権分立。こちらは立法権が優位で国王を法で拘束するという発想です。まさしく立憲主義。本の名前は『市民政府二論』です。

・(モンテスキュー)型・・・立法権、司法権、行政権の三権対等に分立。本の名前は『法の精神』ですね。現在のアメリカ型です。日本やイギリスの三権分立ですが、三権が独立対等というようりも、立法権と行政権は強く結びついています。

4.国家とは

 先ほど国家権力は怖いという話をしましたが、そもそも国家とは何なのか?まずは国家の定義です。国家は国民・領域・主権の三つによって構成されると考えられています。

①領域・・・領土、領空、領海の三つです。領海は国家の基準となる線から12カイリですね。ちなみに排他的経済水域は200カイリで領海以外のゾーンですね。排他的経済水域は、他国よりも優先的に海洋資源(魚やレアアースなど)をとることができるゾーンです。国連海洋法条約で明確に示されました。

②国民・・・国籍を有する人ですね。これは簡単。

③主権・・・???

これが難しいですね。フランスのボーダンという人が『国家論』という本の中で主権を定式化しました。3つです。

1つ目 他国とは独立した力・・・他国から独立している。国連では一国一票ですね。植民地支配された場合には独立性としての主権は失われてしまいます。

2つ目 最終的な意思決定を行える最高の力・・・中世では国王。現在の日本ではもちろん国民主権です。

3つ目 統治する力・・・領域内で犯罪などを犯した者を逮捕することができるといった力のことです。

5.国家の誕生

 では、国家はどのようにして生まれたのか? 皆さんの中で国家が誕生したシーンを見たことがある人はいますか?「あっ、国家できてるやん」って感じで見たことがある人はいないと思います。ではどのようにして国家が誕生したのか?ここで大事なのは社会科学はフィクションをうまく使う学問であるということ。たとえば、お金。単なる紙切れに価値があるとみんなでフィクションを作って信じあう。人権、つまり人には権利があるって考え方だって、ある意味フィクションです。では、国家の誕生にはどのようなフィクションがあるのか?

一応二つあります。一つが①王権神授説。神様が国王に権力を与えて国家が生まれたという説です。科学的な民主国家に生まれた現在の我々からしたら「はい、却下」って感じですね。

 もう一つが、②社会契約説です。こっちは重要。社会契約説は大きく二つの考え方で成り立っています。一つ目は、人は生まれながらに権利をもつとしている点。これは自然権思想といいます。

 自然権思想では、たとえ法律なんかがなかったとしても、人間にはどんな時代や場所であっても、もつべき権利があると考えます。具体的には「殺されない」「奪われない」「縛られない」といった権利です。このような権利を「自然権」といいます。「自然法」とは、たとえ法律などがなくても人間が守らないといけない究極の法のことです。「自然状態」とは、法律などがない状態のことを指します。

 社会契約説の考え方の二つ目は、国家は人々が自分たちの「自然権」を守るために契約して誕生したとする点です。そんな契約する瞬間なんて見た事ある人がいませんので、これは明らかにフィクションです。「まぁ、でもそういうことにしておこう」っていうのが社会科学です。

 ここで契約について立場の異なる論者が3人出てきます。ホッブズ、ロック、ルソーです。この三人がどのようなフィクションを作ったかを押さえましょう。プリントでは表にしていますが、簡単に説明します。

・まずはイギリスのホッブズです。彼は清教徒革命などの戦争の時代に生まれた人で発想は少し「人間不信」なところがあります。殺し合いを見てますから。なので、法律などのない自然状態では人は殺しあうと考えます。これを「万人の万人に対する闘争」といいます。このような自然状態では人は殺し合いをして大変なので、「自然権」が守られません。そこで自分たちの自然権を全面的に譲渡して国王に助けてもらう。その代わり国王の言うことを聞く。人々がそういう契約をすることによって国家ができたと考えたのです。彼の著書『リバイアサン』の表紙は海獣の絵なのですが、よく見ると小さい人間が集まって海獣を構成しているのです。ホッブスの説は、結局のところ国王にとって都合のいいもので絶対王政を擁護することになってしまいます。ただし、国家がどのようにしてできたかというフィクションを早い段階で考えたという意味で意義はあるでしょう。

・二人目はイギリスのロックです。本の名前は先ほど出た『市民政府二論』ですね。彼はホッブズほどには人間不信ではありません。自然状態を「平和で良い状態」と考えました。彼は財産権を特に重視しました。なぜなら、人間は生まれながら自由で、その自由な人間が畑を耕したりなどすることによって物を手に入れます。つまり、物への侵害は十分に「自然権」の侵害となるのです。彼は、自然状態は良いものであっても、時には財産への侵害が起こると考えました。そのため、人々は権力者に自分たちの自然権を信託する代わりに守ってもらう必要がある、そうやって国家が生まれたと考えたのです。ただし、国家が人民を裏切った場合には、人民には革命を起こす権利(抵抗権)があると考えています。彼は間接民主制によって、代表者を選ぶ仕組みが良いと考えました。まさしく信託(信じて託す)です。この考え方はまさしく現代の日本の仕組みに通じています。

・三人目がフランスのルソーです。本の名前は『社会契約論』です。彼の名言を二つ紹介します。一つ目は「自然に帰れ」です。自然状態こそが素晴らしい「理想的な状態」であると考えたのですね。彼はホッブズと真逆の性善説の人です。二つ目は「イギリス人が自由なのは選挙の時だけ」というものです。選挙の時以外は権力者に虐げられているでしょ。だから間接民主制よりも直接民主制の方がいいよ、と言いたいのです。彼は、人間は自分の利益でなく全体の利益を考えることができると考えました。このような意思のことを「一般意思」といいます。意志でも意思でもどっちでもいいです。ちなみに、利己的な意思のことを「特殊意思」、その特殊意思の総和を「全体意思」といいます。以上が社会契約説でした。

 この考え方は現代社会を見る目として重要です。なぜなら、法律や裁判、市役所の仕事などの社会の仕組みの多くの背後には「社会は人々が契約してできたもの」という考え方があるからです。お金、人権などと同じように、実は社会はフィクションで成り立っているのだという認識をもつこともできると思います。勉強してみると分かるのですが、実は「思想」と「社会の仕組み」はつながっているのです。