為替の歴史

授業

ここでは、為替の歴史として、第二次大戦後のブレトンウッズ体制とその崩壊について取り上げていきます。

現在では為替レートは刻一刻と変動しています。しかし、第二次世界大戦後から1971年まではそのような変動のない「固定相場制」でした。この固定相場制は、アメリカのニューハンプシャー州のブレトンウッズという小さな町で協定が結ばれ始まったので、ブレトンウッズ体制と呼ばれます。

ブレトンウッズ体制が成立した経緯

ブレトンウッズ協定がどのようにして結ばれたのかを説明します。簡単にいうと、為替レートの恣意的な変動が、第二次世界大戦のきっかけだと各国が考えたからです。

歴史を遡ると、1929年に世界恐慌が起こります。きっかけはアメリカで株価の大暴落です。アメリカ経済は大混乱し、4人に1人が失業者となります。この不況は、世界各国へと波及していきます。各国は自国を守るために自国通貨の切り下げを行いました。自国通貨の価値が下がると輸出に有利だからです。日本で言うと円安にして輸出が有利になるようにしたと考えてください。当時はこのような為替レートの恣意的な変更が可能だったのです。

しかし、各国がそのような自分勝手なことをしてうまくいくわけがないですね。どの国も自国を守るために、自国通貨の価値を下げるようになり、為替切り下げ競争が起こってしまいました。そうなると、通貨の交換をしなくても良い国とだけ貿易をし、そうでない国は排除するといった動きへと広がります。これがブロック経済です。イギリスは植民地であるインドやシンガポールなどとポンドでやりとりをするようになります。スターリング・ブロックといいます。他にもフランスはフラン・ブロックを作ります。他方で、植民地のないドイツや日本などは自らの市場を求めて他国を侵略するようになります。このような国際協調の欠如が、第二次世界大戦を招いたとされています。

ブレトンウッズ体制の成立

戦争の原因は国際的な協調がないことが原因だと考えた各国は考えます。アメリカを中心とする連合国側44か国は、第二次大戦の終盤の1944年にアメリカのブレトンウッズという町のマウントワシントンホテルに集まります。アメリカ側は、ドイツも日本も負けることは分かっているので、戦時中から今後の世界経済の在り方をどうするかを考えていたのです。ここで決まったのが為替レートを固定とすること、自由貿易を進めることでした。どちらもブロック経済への反省です。為替レートを固定とする点についてはIMF(国際通貨基金)という国連の専門機関を設立するという協定が結ばれます。自由貿易を進める点については、1948年にGATT(関税と貿易に関する一般協定)という協定を結び、自由貿易を進めるための集まり(ラウンド交渉)を行っていくことが決まりました。このようにしてできた戦後の仕組みを、「ブレトンウッズ体制」といいます。他にも、戦後復興を行う国を助けるための機関として世界銀行グループの一つであるIBRD(国際復興開発銀行)という機関も設立されることとなりました。

ブレトンウッズ体制について

IMFについて

IMF設立の最大の目的は固定相場制を維持することです。そのためには、為替の安定と同時に、各国の国際収支が安定することを目的とします。固定相場制の維持については、ドルを世界の中心の通貨と位置づけ、ドルのみが金と交換可能とします。ドルの圧倒的な地位を背景に、その他の通貨とドルの交換レートを固定としたのです。このような固定相場制を「金ドル本位制」と言ったりもします。日本の場合は1ドル=360円での固定となりました。固定相場制といっても、与えられた為替レートの1%までは変動は許容されます。また、1969年にはSDR(特別引出権)制度も創設します。SDRとは仮想通貨のようなものです。IMFに加盟する国は、経済力に応じてIMFにお金を出さないといけません。会員料みたいなものです。この金額に応じて割り振られるのがSDRです。このSDRを使えば、ドル、人民元、円などの世界で主要な国の通貨を受けとることができます。たとえば、A国がB国に対してドル建てで借金をしている場合、A国はB国にSDRを渡すことによって借金を返済したことになります。これは国際収支が赤字の国を救うための措置の一つです。

他にもIMFは、国際収支が赤字で大変な国に対して短期での融資を行うこともできます。これまで1997年にアジア通貨危機が発生した際にタイや韓国が短期の融資を受けています。ただし、この融資を受けるためにはコンディショナリティと言いまして、法改正などの厳しい条件を受け入れる必要があります。知り合いの韓国の人が、韓国の大学生は、IMFが厳しくて、融資以前に比べて大学でしっかりと勉強しないといけなくなったと言っていました。IMFは、固定相場制ではなくなった現在も存続しています。各国の経済政策へのアドバイスなどを行っています。

GATTについて

GATTは自由貿易を進めるための協定です。自由貿易の反対が保護貿易です。GATT加盟国は、保護貿易の要因を取り除くことについて話し合います。具体的には関税、数量制限、為替制限です。第一に、関税とは、外国製品にかける税です。自国産業を守りたい国は関税をかけることによって、外国製品が自国で流通しても高値でしか売れないようにしてしまいます。GATT加盟国は、関税を引き下げて最終的には0%にすることを目指します。そして、ある国が低い関税を受け入れた場合には、その関税はすべての加盟国に適用されます。これを最恵国待遇の原則といいます。第二に、数量制限とは、外国製品が入ってこないようにしてしまうことです。関税以上に保護貿易の要素が強い措置です。数量制限はGATTでは基本的には禁止されています。もしも、そのような制度を残している場合には、制度自体を変えるように迫られます。第三に、為替制限とは通貨の交換をできないようにすることです。こちらは、通貨の番人であるIMFのルールとして、禁止されています。

このような自由貿易の交渉については、GATT加盟国はラウンド交渉といって、多国間で行っていきます。これまでケネディラウンド、東京ラウンド、ウルグアイラウンドなどが行われてきました。東京ラウンドでは工業製品の一括引き下げが行われました。自由貿易の推進役としてGATTはそれなり活躍してきたのです。特に重要なのがウルグアイラウンドです。ここで大きく3つのことが決まりました。

内容
WTO(世界貿易機関)の設立GATTは集まって話し合うことを決めた「協定」に過ぎないので、今後は、組織としてやっていこうということになった。
交渉範囲が農産物や知的財産に及ぶこれまでは工業製品などに交渉の範囲が限られていたが、サービスや特許権などについても話し合うようになった。
日本にコメの自由化が求められる日本は自動車の輸出などによって自由貿易の恩恵を受けているにも関わらず、コメの輸入をしないのはダメだと言われ、最低輸入量を指定される。これをミニマムアクセスという。数量制限も認められず、関税化が要求される。(1999年より関税化)

WTOとGATTの一番大きな違いは、WTOではネガティブコンセンサス方式がとられるようになったことです。ネガティブコンセンサスとは、議長が出した案に全員が反対しない限りは、その案が通るという仕組みです。GATTやWTOでは加盟国同士が貿易について揉めた場合には裁判のようなことができます。たとえば、日本は、韓国が福島産の水産物を輸入禁止にしていることに異議を申し立てWTOに判断を委ねたことがあります。ここで敗訴しています。GATTからWTOになったことで、このような紛争解決機能が強化されました。これまでのGATTのルールでは、一か国でも反対国があれば、紛争についてどちらの国の言い分が正しいかを判断する場(パネル)を開くことすらできませんでした。そのため、WTOではネガティブコンセンサス方式が取り入れられ、ほぼ自動的にどちらが悪いかを決める場が開かれることになりました。

ただし、WTOは近年うまくいっていません。2001年よりドーハラウンドが開かれますが、中国(2001年加入)やロシア(2012年加入)など加盟国が増えたこともあり、交渉自体がうまくいきません。そのため、ラウンド交渉はドーハラウンド以降は行われていません。各国は二国間や多国間での自由貿易交渉をすすめFTA(自由貿易協定)EPA(経済包括連携協定)を結ぶことが多くなっていきました。もちろん、このような個別の貿易交渉については、最恵国待遇の原則は適用されません。

最後に、例外の話しをしておきます。たとえば、貿易相手国が大量に安価な製品を急に輸出してきた場合には、その国は自国産業を守る権利くらいはあります。その場合、セーフガードといって緊急輸入停止をすることができます。また、相手国が自国産業に補助金を出して不当に安い価格で輸出してくることもあります。これをダンピングといいます。このようなダンピングに対しては関税を引き上げて対抗することが可能です。アンチダンピング措置といいます。また、途上国への優遇措置もあります。一つは、途上国は数量制限が認められます。先進国の産業から自国産業を守れるようにしてあげているのです。また途上国の製品だけは低い関税しかかけてはいけないという措置もあります。これを一般特恵関税と言います。同様に、IMFについても、途上国は為替制限をすることを例外的に認めています。

ブレトンウッズ体制の崩壊

このようなブレトンウッズ体制ですが、1971年にあっさりと崩壊します。理由はブレトンウッズ体制を作ったアメリカ側にあります。ブレトンウッズ協定を結んだ当初は、アメリカは圧倒的な経済力を誇っていました。ヨーロッパ各国は戦争で疲弊しきってましたから。そのためドルだけが金と交換できる体制はそれなりにうまくいきました。しかし、各国が力を持ってくるとアメリカの地位は相対的に低下します。アメリカは外国から製品を購入しまくります。また、アメリカはベトナム戦争などで海外に対してお金をたくさん使います。すると、各国はドルをたくさん持つようになります。あまりにたくさんのドルがあるということで、各国は「こんなにたくさんドルがあるけれど、本当に金と交換できるのかな?」と半信半疑となっていきます。すると、ドルと金を交換する動きが広がり、アメリカから本当に金がなくなってきます。これに困ったアメリカのニクソン大統領は8月に記者会見を開きます。なんと、ドルと金の交換停止を宣言するのです。これが、いわゆる「ニクソンショック」と言うやつです。政治・経済では、ニクソンショック(1971年)、オイルショック(1973年)、リーマンショック(2007年)、コロナショック(2019年)と結構ショックが多いのですが、これが最初のショックです。

これでは国際的な取引がうまくいかないということで各国で話し合いをします。まずは、スミソニアン協定(合意)(1971年12月)です。アメリカのワシントンDCにあるスミソニアン博物館で決まった協定です。「アメリカがしんどいなら各国が譲歩して助けてあげよう」ということで、これまで以上にドル安にすることで、固定相場を維持しようとします。この際に1ドルは308円となります。しかし、想像できると思いますが、ドルへの信頼回復はもう不可能でしょう。需要と供給にもとづいて、自由に動き出した為替レートは止まりません。そのため、1976年にキングストン合意が結ばれます。「これからは、正式に変動相場制度でやっていこう」という合意です。よって、現在の変動相場制はキングストン体制と言われたりします。このようにして、為替レートが動くことが当たり前の現在の世界が実現しました。

ただし、各国は為替レートの変動が完全に自由なわけではありません。為替レートの変動が経済全体に良くない場合には、政府は介入することができます。たとえば、1985年には双子の赤字(貿易赤字と財政赤字)を抱えるアメリカを救うために、G5(アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、西ドイツ、日本)がプラザホテルで開かれドル安介入が決まりました。これをプラザ合意といいます。ドル安ということは相対評価で円高ですね。日本政府は日本銀行に命じて保有する大量のドルを円買いに使いました。このような大規模介入もありますが、現在でもちょこちょこと為替介入は行われています。