第2回 青年期①
(1)青年期とは
本日の学習内容は、皆さん自身についてです。前回お話したように、社会とは人間によって作られるものである。それなら、まずは人間について学習する必要があります。中でも皆さんにとって最も身近な存在である自分自身について本日は学習してもらいたいと思います。
この教室の皆さんに共通していることが一つあります。それは全員が青年期にあるということ。では、そもそも青年期とは何か。青年期とは、人生における大人と子どもの境界線となる時期とされています。皆さんも「もう大人なんやから自分でやりなさい」と言われたり、「まだ子どもやねんから我慢しなさい」と言われたりするのではないでしょうか。皆さんのような社会の入り口に立つ人を、心理学者レヴィンは「境界人(マージナル・マン)」と呼んでいます。まさしくボーダーラインにいる人。では、逆に大人とはどのような人のことを指すのでしょうか?江戸時代なら15歳になると、男性はちょんまげ、女性はお歯黒をして大人の仲間入り。エチオピアのハマル族は、全裸で30頭の牛の上を一度も落ちずに、4回飛び越えたら一人前。このような習慣を「通過儀礼(イニシエーション)」といいます。通過儀礼をすることによって大人とみなすのは、時代や場所を問わず共通して行われる傾向にあります。今の日本なら成人式ですね。
では、皆さんは今15歳ですが、自分のことを大人だと思いますかね。おそらく自分のことを大人と思っている高校生は少ない。大人のイメージってどんなものでしょうか。教科書を見てみると高校生がもつ「自立した大人」のイメージが記されています。「働きはじめたら大人」という回答が多いですね。また「大人のイメージ」としては、9割近くの高校生が「大変そう」、「疲れている」と答えている。
法的には、どこからが大人なのか?これは、年齢による線引きをしています。14歳以上で刑事責任を負うことになり18歳以上から成人として扱われます。成人と未成年の一番大きな違いは、単独で契約ができるかどうかです。皆さんは契約したことがありますか?実はコンビニでじゃがりこを買う、電車に乗るという行為も立派な契約なのですよ。皆さんはお小遣いの範囲内なら契約ができる。でも、大きな買い物は単独ではできない。もしも、できたとしても後で親権者が取り消し可能です。18歳以上になるとそのような保護がなくなる。その反面、自由も増える訳ですが。ちなみに少年法では18歳、19歳は「特定少年」といって大人としては扱いません。あと酒やたばこも20歳からですよ。
もう一つ蛇足ですが、「未成年の人が成人のふりをして行った契約も取り消せるのですか?」と聞いてくる生徒がたまにいます。答えは「できない」です。昔、中学生の女の子が自分を大人と偽って数十万円のお金をホストクラブにつぎ込んだという事件がありました。その子の親としては、そのような契約は取り消したい。この事件、裁判所は返金を認めませんでした。人をだますような人は、法律で保護するに値しないということですね。
(2)青年期の特徴とは
一般的に青年期はしんどい時期、「危機の時代」だと言われています。私の高校時代の先生なんかは、「心配せんでも17歳は全員病気や」という名言を残しているくらいです。また、歌手アンジェラ・アキの「手紙~拝啓十五の君へ~」という曲の歌詞も、15歳の青年期真っただ中の悩み苦しむ過去の自分に対して、語りかけるようなものとなっています。
では、なぜ青年期は悩み苦しむ時期なのか。それは心に変化が生じて、今まで考えもしなかったことが悩みとなるからです。どのような心境の変化か。一つは性のめざめ。恋愛などを意識するようになる。これは第二次性徴という身体の成長から起こる。そして、もう一つが自我のめざめ。「自分とは何か?」、「なぜ自分はこんなことができないのか?」といった感じで自分自身を意識するようになり、親から離れて自分で判断したり行動したいと考えるようになる。まさに第二反抗期であり、親からの心理的離乳を求め出す。
でも自立していないから、自分では多くのことを決められない。ここから、葛藤が心の中に生じる。友人関係にもジレンマが生じる。友人を作りたいけれども近づき過ぎると傷ついてしまう。逆に離れすぎると孤独を感じる。このような状況を「ヤマアラシのジレンマ」と言います。しかし、このような状況を経て人は適切な人間関係を学んでいくともいえる。以上が青年期に人がしんどくなる理由です。先生くらいのおじさんになると、皆さんの精神状態をこれくらい論理的に淡々と説明できてしまうのです。
(3)公共の担い手をどのように育てるか
青年期について、思想家たちはどのように考えたのでしょうか。ここでは、フランスのルソーという思想家を取り上げます。この人は多才な人で政治分野では1762年に『社会契約論』という本を書いていて、民主的な社会の在り方を説きました。「国家は平等な市民のためにあるのだから、国家が制定する法律は公共の利益(一般意思)となるべきだ」と考えました。彼の政治思想は、フランス革命にも影響を与えることになります。また、童謡「むすんでひらいて」は彼が作曲したオペラの一部とも言われています。
今回紹介するのが『エミール』という本。この本で彼はカトリックのことを悪く書いたものだからフランスを追放までされてしまいます。この本の執筆には20年もかかった。まさに命をかけた作品。この作品の中で、青年期について触れられているのです。そもそも『エミール』の正式名称は「エミールまたは教育について」です。家庭教師(ルソー)がエミールという少年を預かって育てるという架空の設定で話がすすんでいきます。彼は物語を通じて、公共の担い手としての市民をどう育てるかを論じていくのです。彼が目指したのは「自分のために生きる」と同時に「社会のために生きる」ことのできる人を育てることでした。これは相反すると考えがちですが、自分も含めた公共の利益(一般意思)を考える姿勢は教育で養えるとしたのです。
この本が出版された当時のフランスでは、子どもという概念自体がきちんとなく、小さい大人という感じで教育を行っていました。彼はそれを批判し、子どもの発達段階に応じて教育するべきことを説く。当時そんなことを考える人はほとんどいなかったので、先進的な教育の本でした。今では当たり前ですけどね。
では、ルソーはエミール君にどのような教育をするのか?まず12歳位までは自然との触れ合いを重視した教育をする。徹底的に「自分のために生きること」を重視した教育です。自分のために生きるとは、他者による判断基準のために生きるのではなく、自分の判断基準で生きるということ。現在の日本では「空気の読めない人」と思われないように周りの目を気にして生活しないといけない。学歴、名誉、地位のために際限なく頑張り続けなければならない。ルソーはエミール君にそのような他人の判断基準にもとづいて、不自由に生きることをさせたくない。そのため、社会に関わる教育は一切しない。
でも、エミール君も15歳くらいになると他者が気になりだす。特に異性が気になり出し、目立とうとし競争心を持つようになる。ルソーはこの時期を「第二の誕生」と呼びました。社会に関する教育をスタートする時期です。特に歴史の学習を通して、人間の不幸や社会の不平等を教えていく。その学びを通して、他者の不幸に共感し「憐れむ」ことを実感させていく。どんなに元気な人でも苦しみをもっている、誰だってしんどいときがある。人間の弱さや苦しみをお互いに共感すること、助け合いの気持ちをもつことこそが公共を担う人間には必要だとルソーは考えたのです。以上が、ルソーが提案した「自分のために生きる」と同時に「社会のために生きる」ことのできる公共の担い手の育て方でした。
(4)青年期の発達段階
青年期は大人になるための準備期間(モラトリアム)とされています。大人になるためにはどのような課題をクリアーしなければならないか、2人の思想家が説明しています。まず、ハヴィガーストと言う人は、人生を6つに分けて、青年期に達成するべきものとして10個の発達課題を挙げています。たとえば、「同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと」などです。もう一人が、エリクソンです。エリクソンは人生を8つの段階に分けて、それぞれの発達課題を示しました。ある段階の発達課題を達成すると次にいけるというイメージです。このような考えをライフサイクル論といいます。特に青年期の課題を「アイデンティティ」の確立としました。
では、アイデンティとは何か。辞書的には自我同一性と訳される。余計訳が分からないですね。たとえば、皆さんは家族の前で見せる自分と学校の友人や先生の前で見せる自分などなど、振舞い方を変えていますよね。時には自分の中でイメージする自分と他人が思っている自分が大きく異なることがある。「○○さんってこういう人やね」って言われて心の中で「そうでもないんやけど」と感じたりしたことはないですか。相手の決める自分と自分の中で思い描く自分が大きく乖離していたら気持ち悪いと思いませんか。もっと言うとしんどいと思いませんか。他者からも認められ、自分でも認める自分を持てたときにアイデンティティが確立されたと言える。このアイデンティティの確立こそが青年期の最大の課題であるとエリクソンは考えました。
アイデンティティに関わるジブリ映画として宮崎駿の「千と千尋の神隠し」があります。映画の中で主人公の千尋ちゃんは、悪い魔女に自分が自分である証拠をどんどん奪われていきます。例えば、名前を千尋から千に変えられる。洋服は仕事着になる。両親は豚にされる。引っ越し先に向かう途中で友達もいない。学校にも属せていない。誰も彼女のことを千尋と思ってくれない。自分自身も自分が千尋であることを忘れていく。そんな中で、自分のことを千尋と呼んでくれる不思議な少年と出会う。でも、その少年も自分自身が何者であるかわかっていない。千尋ちゃんは頑張って、その少年の本当の名前を呼んであげる。するとその少年がもとの自分の姿を取り戻す。ここが名シーンです。その後、どうなっていくかは映画を観てください。
この物語は、まさしく、自分が自分であるためには他者が必要であることが表していると言えます。社会に出ると他者の存在を通して自分というものを確認することは往々にあります。ここで、自分の思う自分と他者の思う自分が異なるとしんどい。不安定になる。周りが認める私自身と自分が認める私自身が一致したときに、自分の社会での役割がきちんと見えてくる。エリクソンが青年期にアイデンティティの確立を求めたのは、そのような理由からでしょう。ただし、このような確固たる自己を確立する必要もないという考え方もあります。「多元的な自己」という考え方です。いずれにしても、あまり性急に本当の自分探しなどしないように。まずは、ゆっくりと心地の良い人間関係を学校で築いてもらえればと思います。
(5)おわりに
本日は青年期について学習をしていきました。青年期とは社会の入り口にあたる時期であると分かったと思います。また、ルソーの『エミール』から公共の担い手に必要なものとは何かというヒントも得たかと思います。現在の日本では、学校教育を受ける期間が長く、経済的に自立するのが難しい分だけ、社会の入り口の部分が長い。次回は青年期をめぐる社会の諸課題について学習していきたいと思います。